品格問題、再び

横綱白鵬が“猫だまし”をしたことを批判して、また品格という言葉が聞かれます。“また”と書いたのは、そう、朝青龍のときとまったく同じだからです。

“猫だまし”が禁じ手でない以上、白鵬を責める“具体的な”論拠はありません。そこで持ち出された言葉が「品格」です。

では、横綱の品格とは如何なるものなのでしょうか。

それを“具体的に”説明できる人がいるなら、お目にかかりたい。したり顔で論じる人たちの言葉は、多分に主観的で抽象的な観念論でしかありません。

一人の人間が、人の数だけある“ただの気分と好みの話”に付き合っていたら、それだけで人生が終わってしまいます。

自分の「横綱斯くあるべし」という“思い込み”を押し付けて、何様のつもりか。そうやって、自らの正義の旗を振り立てて他人を“ある枠”のなかに押し込めようとするのは傲慢です。

そもそも、具体的な「Q&A」で規定できるものでもなければ、教則本があるわけでもありません。そんなものを作って言動を規制したら、それこそ一人の人間をモノ扱いすることで、横綱の品格云々以前、人間の尊厳の問題になります。

白鵬が、なぜ“猫だまし”をしたのか。何よりもまずそこに目を向ける人がいないことに愕然とします。横綱といえども、思うこと、考えることのある一人の人間です。その意図を慮らないのが、結局は彼が日本人ではないからなら、それこそ、これほど“横綱”を愚弄した話はなく、その品格を汚すものです。

土俵の上でイレギュラーな戦法を取った理由が、例えば相撲人気の陰りを憂えて、自分が批判されることで世間の耳目を集められればいいという自己犠牲の精神によるものだということも、あくまでも可能性のひとつですが、考えられます。

個性的な振る舞いをしたから、いままでに例のないことをしたから批判するという態度がまかり通ったら、わたしたちは“規格品”であることが求められるということです。

それが、人間が人間にすることか?