敗戦記念日

福井晴敏の『終戦のローレライ』を評して、「ようやく太平洋戦争を題材にしたエンターテインメント小説が書かれた」というものがありました。

人の命が失われた惨事の物語化を拒否しながら、この作品を夢中で読んだのはなぜか。

それは、自分がそれを経験していないからでしょう。自分の身に起きたこと(あるいはリアルタイムで経験したこと)と、そうでないこと。その断絶は如何ともし難いものです。

残念ながら、それが自分のことでなければ、実感をもって理解することなどできません。骨身に沁みません。

だからこそ、想像することが必要です。現実の千分の一、万分の一であっても。

わたしの父方の祖父は、東京大空襲で亡くなりました。残っているのは、額縁に収められた古い写真が一枚だけ。わたしの父は、その祖父との思い出を持っていません。

もう一人、母方の祖父は中国大陸に出征していました。祖父は生前、その頃のことについては一切口を噤み、誰にも何も話さなかったそうです。尋ねなかった自分の愚かさに歯噛みしつつ、もう少し長生きしてくれたらと、いまでも思っています。

この程度のことでも、大切な縁(よすが)です。

先の戦争は、間接的にですが、わたしの人格形成に影響を及ぼしていると思えます。

その戦争が終わった日。