庇いあう人たち

都議会の野次問題は日本の社会の縮図です。それは男尊女卑の思考回路にとどまりません。

野次を飛ばした者も、それを注意しなかった者も、へらへら笑っていた者も、人間としての尊厳も品位も、欠片として持ち合わせていません。それを醜悪なことだと思うこともなく、(読むべきことに汲々としている)“空気”として受け入れているのです。

これは、何も都議会に限ったことではないでしょう。程度の差こそあれ。

議長を筆頭に議会を運営する側が発言者を特定することなく幕引きを急いでいるようですが、急いでいるということ自体が、彼らの「自分たちはまずいことを言った、態度をとった」という自覚の表れです。そして、これは私の想像ですが、彼らの中では「まずいこと」であって「酷いこと」ではないのだろうと思います。

それは、数日を経ても発言者が名乗りを上げないことからも明らかです。

しかし、考えるまでもありません。発言はあったのです。録画されているのです、録音されているのです。声紋を確認するなどといった大げさなことをするまでもなく、それを傍で聞いていた人が「この人が言いました」と指を指せば済むことです。それができないなら、「自ら名乗り出て謝罪した方が後々のためにはプラスになる」と助言することも可能です。

それをしないのは何故か。

お互いに、自分の身に何かあったとき庇ってほしいと思っているからです。今回はオレがオマエを庇う。次はオマエがオレを庇ってくれよ。その庇いあいこそ、役人にとっては絶対の決まり事。このルールを破った者は仲間ではなくなります。

今回、沈黙を守っている人たちは、将来の自分を守っているのです。

この人たちを動かすのは何でしょうか。

私は、映画監督の黒沢明を思い出しました。黒澤明は、まず海外で評価され、国内では、それに追随する形で認められました。日本人は、自分たちで良いものは良いと見極めることも、判断することもできなかったのです。外国の偉い人たちが良いと言うのだから良いのだろうと。

これと同じです。

例えば、永田町の自民党本部の偉い人たちから「スケープゴートを差し出せ」と言われなければ、さらには海外のマスコミが飛びついて猛烈な批判をしなければ(こうなって初めて永田町が動き出すことも可能性大ですが)、黙り込んで済ませようとする。

この人たちが何を決められるというのでしょうか。スピード感を持って決める政治などに何の意味が価値があるのでしょうか。

どうか、自ら名乗り出てほしい。世のすべての女性に真摯に謝ってほしい。世間を騒がせたことではなく、一人ひとりの女性を傷つけたことを。そして、日本という国の尊厳を汚したことを。