の政治家

国際政治のニュースを見聞きするとき、国を人格を持つ個人のように表現することに違和感を覚えます。

例えば、「○○(国名)の態度は〜」や「○○の行為は〜」といった言い方をしたとき、その主体を想像できますか? 私はできません。

しかし、その○○の後に「の政治家」と入れると、途端に具体意的な顔が見えてきます。

その政治家個人が言っているのです、しているのです。

その政治家が“無私の心”で国民という名の他人の幸福を、自分自身のそれよりも優先して追求していると思っている人はいないでしょう。日本であれ、他国であれ。

それなのに、その政治家の言動のみを取り上げて“国の意見”と見做すのは不自然ですし、危険です。

これは、政治家だけにかぎりません。個々の現場での個人の振る舞い、ネットを含むメディアでの個人の言動も同様です。○○人が言っている、しているという前に、その人の顔を見つめましょう。そこにいるのは、きっと、国を背負う器も気概もない小さな弱い一人の人間のはずです。