良き心

「権力は道徳に優越しない」を少し変えてみます。理想を掲げる主義主張は個人に対して優越するのでしょうか、しないのでしょうか。

人が移動手段も通信手段も持たず、小さなコミュニティが個別に形成され、そこに暮らす人々の人生が限られた範囲で完結していた頃と現代。人間にとって幸せな環境はどちらでしょうか。

そう思う一方で、中学生や高校生の痛ましい事件を見聞きするたびに、「その狭い人間関係は一時的なものに過ぎず、いま身を置いている世界がすべてではないことを知ってほしい」と思わずにはいられません。

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』で描かれるように、人間は“ここではない別の場所”を求めて旅を続けて今日に至り、その道はまだ半ばです。

その過去が厳然として在る以上、その場に止まることは閉塞と同義なのでしょうか。

組織といえども、それは人の集まりであり、そこにいるのは個人のはずです。その個人が、同じ個人である他者を駒や単位として扱うことを許す大義名分とは、個人にとって何なのでしょうか。

資本主義と共産主義の対立は、理想を追い求める人間の“良き心”が生んだものであり、長い人間の歴史の中の一場面に過ぎません。そして、人間が“良き心”を失わない限り、対立は生まれます。

しかし、人間が“良き心”を捨てたら、この世は闇です、地獄です。

そうならないよう、世界の暗部で繰り広げられる「諜報」。そこでは人間の持つ誇りが歪な形で昇華されます。

ジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』を読んで、人の業の前に立ちすくみ、神の残酷さに震えました。

スクールボーイ閣下〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

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