鬼の木村の真実

記憶は記録に塗りつぶされ、辻褄が合わされます。これにて一件落着と。

その正史に対する叛史。その拠り所となる個人の記憶もまた、美化され、脚色されます。当人に都合の良いように。最も信憑性が高かるべき“自伝”が最も信頼できないというパラドックスが生じます。

そして、第三者による評伝、ノンフィクションもまた、その著者というフィルターを通している以上、特に人物を扱った作品の場合、その客観性には留保がつきます。

では、疑いのない数字だけを羅列すれば正しい姿が描けるのかといえば、そうではありません。その真実を見抜く眼力をすべて読者に求めても、それは不毛です。

ノンフィクションもまた“作品”であり、肯定するにしろ否定するにしろ、読者の反応があって、論争があって、作品それ自体が成長していく。

それはつまり、この本が世に問われたのは正しいということです。