原罪

あれから二年。何が変わり、何が変わらないのでしょうか。

このブログを始めた頃、マスコミの非道について書きました。

http://d.hatena.ne.jp/ocelot2009/20090714/1247580927

同じことが繰り返されています。

子供たちに、大切で大好きだった(と過去形で書かざるを得ない)父親や母親が亡くなった事実をあらためて突きつけ、その小さな口から健気な言葉を引き出す。それに悲しげな音楽を被せれば、感動的なドキュメンタリーの一丁上がり。

それが非道でなくて、何が非道でしょうか。

そのような愚劣なものを見せられなくても、記憶は今も鮮やかです。残酷なほどに。

誰もが日々の生活に汲々としていますが、自分たちが暮らす国で、地続きの場所で起きた悲劇は決して他人事ではなく、その悲しみは、何をしているときでも頭の片隅にあるのではないでしょうか。ふとした瞬間に脳裏をよぎるのではないでしょうか。

しかし、その悲しみを内懐に抱きながら、私たちは変わらぬ日常を過ごし、そこには笑顔もあります。

このように生きていくことができる人間は、何と罪深い存在でしょう。これが人間の持たざるを得ない“原罪”だというのなら、まさしく、人間は姿だけ神に似せた不完全な生き物です。

それでも、やるのは私たちです。

小幡績も、著書の中で「何事も、一挙解決はドラマのなかだけの話で、現実には、困難な問題は地道に解決するしかない」と書いています。

粘り強く、粛々と。

できることを、こつこつと。

その成果を見るのが次の世代でも良いではないですか。