『ヱヴァQ』雑感

映像作品の見せ方(魅せ方)は、小説でいえば文体です。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は、その文体に特化した作品という印象を持ちました。

脚本の瑕疵や不備については既に多く論じられていますので、それらについて書くことは差し控えます。

この『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の特徴は、テレビ版と旧劇場版の視聴者及び観客の存在を前提にしているところです。言い換えるなら、製作サイドはテレビ版と旧劇場版を視ている人たちに向けて作っているということです。それらをリアルタイムで視ることなく、今回の新劇場版で興味を持った人でも、「テレビ版及び旧劇場版は無視して、新劇場版だけを観る」ということはないでしょう。

言ってみれば、新劇場版は観客に予備知識を要求するのです。それによって、製作者と観客の共同作業による観賞という他の作品ではあり得ない共犯関係が生まれます。

今回の『ヱヴァQ』は、それが裏目に出たと思います。説明不足も度を超し、時間も空間も広大なのに、物語は主人公の碇シンジの半径数メートルでしか進んで行かず、こじんまりとしています。

再び小説に置き換えるなら、語り手(=主人公)の夢や妄想が描写されても、抽象的、観念的な表現が縷々綴られ、総じて退屈です。『ヱヴァQ』も同様です。

テレビ版の放映時及び(その延長としての)旧劇場版の上映時、物語の中でのキャラクター同士のことであれ、製作者と視聴者及び観客との間のことであれ、そのディスコミュニケーションは肯定されていました。それがリアルであると。

しかし、リビルト(再構築)を謳った新劇場版では、それは通用しません。ネガティブな意見が多いことからも、それは明らかです。

しかし、次の完結編によって、それが覆る可能性が大きいと、私は思っています。というのも、観た人たちがあれこれ語るのに比して、監督や声優といった製作サイドからの発言が皆無といって良いほど少ないからです。これは意図的なもののはずです。『ヱヴァQ』への批判は折り込み済み、その反動を利用して完結編でそっくり引っくり返してみせるという自信の表れではないでしょうか。

この『ヱヴァQ』は退屈でつまらない作品でした。それを取り返してくれるものと、完結編には期待しています。