『銃・病原菌・鉄』下巻

南極を除く、ユーラシア、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアの各大陸、その他の多くの島々の形までもが環境を決定づけ、人類の歩みに影響を与えたとする論旨には度肝を抜かれるとともに、大きく頷かされました。と同時に、読んでいて、ひろさちやの“仏のシナリオ論”を思い出しました。すべては予め決定されていたのでしょうか。

偶然であれ必然であれ、すべてが環境によって仕向けられたことなら、人類の歩みに主体性はありません。人間の本体は遺伝子にあり、肉体はその器に過ぎないという説があります。その行動が(遺伝情報を残すことも含めた)自己保存プログラムに過ぎないのなら、何を以って自分の判断とすることができるのでしょうか。

それは著者も危惧していて、エピローグで、自分は「環境決定論」には与しないと書いています。人間の意思、決断、創造性があってこその進歩であると。

その絶え間ない歩みを想うとき、現在を生きる私たちは、長い長い人類史の、その中の僅か数十年を受け持っているに過ぎないのだと気付きます。それは、私たちが“その他大勢の一人”ではなく、“バトンを受け取った一人”だということです。この世界を、少しでも良くして次の世代に引き渡す責任と義務があるということです。

社会を変革しろというのではありません。この本の著者も、歴史上の有名な人物の名前を挙げながら、一握りの天才や偉人が(あるいは悪人が)世界を形作ったのではないと言います。

映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で、「このあたたかさを持った人間が地球さえ破壊するんだ。それをわかるんだよ」と叫ぶシャア・アズナブルに、アムロ・レイは言います。「だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ」と。

日々の生活の中で、自分の周りの人たちに向けて、それを実践していくこと。それだけで良いのだと思います。

まるで小説を読んでの感想のようですが、素晴らしい本にはフィクションだ、ノンフィクションだというジャンル分けなど要らないのです。