格闘技オリンピック

かつての格闘技バブルを基準に大規模な大会を開催しては負債を抱えていくのはナンセンスです。と同時に、個々人が、個々の団体が、既存のファンを繋ぎ止めることに汲々として、結果的に自分たちだけの世界に自閉していく先にあるのはジャンルの消滅です。

個々の競技、同一競技でも別々の団体が身の丈に合った運営をしつつ、その一年の集大成として年末に一堂に会するというのはどうでしょう。そして、出場することができるのは、その一年に充分な実績を残した一握りの選手のみ。実力の伴わない人気先行の選手は不可とします。その大会に出場することが格闘家としてのステイタスになるように。

他団体の選手との越境対決が翌年の運営に支障を来たすなら、各団体は、選手ではなく、提供できる最高のカードで参加するというスタンスを取れば良い。

ギャラは無し。得られるのは名誉のみ。そのために、完全なチャリティ大会とします。その志が試されます。

それを、五年、十年と続けるのです。その積み重ねの結果として、社会的認知と信頼が生れます。

その間には、選手の世代交代もあるでしょう。現在活躍している選手は、時間が足りず、彼らが現役でいるうちに充分な見返りを得られないでしょう。将来のために、彼らには捨石になってもらいます。命を賭けるというのは、何もリングの上でのことではありません。人生を賭すに値すると思って格闘技を選んだなら、その競技のために、その人生(=命)を賭けていただく。

自称格闘家の中には、未だにプロレスを蔑視する発言を繰り返している選手がいます。

私が“自称”と付けたのには理由があります。はっきり言って、格闘家という職業は、職業として認知されていません。この国に暮らす大多数の人々にとって、自分たちの生活とは何ら関係のない、自分たちの生活に何ら影響を及ぼさないものです。一部の好事家と馴れ合っているだけで、その姿のどこがプロフェッショナルなのか。

プロレスラーは、プロレスラーとして認知されています。それは、力道山から始まったプロレスというジャンルの絶えざる積み重ねの上に成り立っており、決して現役のプロレスラーたちだけの努力の結果ではありませんが、より多くの人に存在を認められているという点で、格闘技はプロレスに遠く及びません。

まさか、ジムを経営して、そこそこの知名度によって、そこそこの会員が集まり、そこそこ暮らしていける収入があれば良い。リングに上がるのは、そのための宣伝に過ぎないなんて考えてはいないでしょうね。

一年一年の積み重ねの末に……。

五味康祐の『秘剣・柳生連也斎』(新潮文庫)の解説で、遠藤周作は、剣豪小説の魅力を「劣等補償」という言葉で語っています。リングは、“恍惚と不安”を持つ、選ばれし者だけが上がることを許される場所です。そこで、志の高い選手たちによって繰り広げられる戦いに自分を重ねて、あれこれあった一年を締めくくる。悪くないと思いませんか?