『灰姫 鏡の国のスパイ』

打海文三の『灰姫 鏡の国のスパイ』は、日本、極東ロシア、北朝鮮を扱ったエスピオナージュです。

投資環境についてのレポートを商品にする民間調査会社の社員が暴行を受けて死亡します。その背後に北朝鮮の情報機関の存在が疑われ、ロシアのKGBアメリカのCIAも交えた諜報戦が繰り広げられます。

確かに難物でした。人物、出来事、その他の固有名詞の現れ方が唐突で、何度も文字を追う目の動きが止まり、同じ行を二度三度と読み返したり、前のページに戻ったり。

グーに勝つのはパー。パーに勝つのはチョキ。チョキに勝つのはグー。でも、グーに勝つのはパー……、といった具合に、作中で語られることが絶えず上書きされます。途中で、「では、今まで読んできたことは何だったのか」という疑問が何度も浮かびました。

確かに欠点の多い作品です。しかし、途中で飽きたり、投げ出したくなったりはしませんでした。

長く本を読み続けていれば、途中で読むのを止めた本、義務のように最後まで読んだものの、本棚に並べることなく古本屋に直行した本もあります。

何が違うのでしょうか。“志”だと、私は思います。

文学賞に応募するとき、(選考委員という)読み手を強く意識するはずです。それなのに、これほど読み手への説明を拒否した作品を書いたとは、驚きを禁じ得ません。その、媚びのない堂々とした姿に、デビュー前にして既に“作家・打海文三の世界”を見る思いです。

その全著作を並べたとき、『灰姫 鏡の国のスパイ』が特殊な作品であることは間違いありません。いきなり読んでも、打海文三の魅力を感じてもらえるかは甚だ疑問で、私は薦めません。

私は、欠点は欠点と承知しつつ、これ以降に書かれた作品群をサブテキストに、能動性を持って『灰姫 鏡の国のスパイ』に挑戦しました。その結果は? 「勝った」と言わせていただきます。