『官僚の責任』

「経済は一流、政治は三流」とは、かつて言われた言葉です。加えて、「日本の官僚は世界一優秀」とも。

中国に於いて、歴代の王朝は正史を編みました。それは自らの正統性を誇示するためでもあり、そのための方便として、前王朝を否定するのは至極当然のことです。

日本に於いても、政権交代の後、民主党によって、自民党が与党にあった頃の多くのことが批判、否定されました。官僚批判も、自民党と官僚の持ちつ持たれつの関係が“自民党的”であるが故のことだったのでしょう。

ジャーナリストの立花隆は、二十年以上前ですが、縦割り行政について、その著書の中で、大略「官僚は国の根幹に関わる仕事をしており、自分が属する省庁の役割りに自負を抱いている。そのため、省益と国益を同一視してしまう」と書いています。

国際政治評論家のカレル・ヴァン・ウォルフレンは、その著書の中で「選挙によって有権者の付託を受けた国会議員が官僚をコントロールすることが大切」と説きます。

私は、ひと頃の官僚批判を、この二つの論を基準に眺めていましたが、古賀茂明の『官僚の責任』を読んで、それらが木っ端微塵に砕けました。とにかく、その場に身を置く当事者の視線、言葉はリアリティと説得力に満ちています。

優秀とは何か。立花隆をして、個人の善意や優秀さが組織の理論に潰されることを見抜けなかったのでしょうか。

政治主導とは何か。ウォルフレンの唱える“アカウンタビリティ”の欠片も無い政治家に、その理想を実現する能力はありません。日本を愛し、日本の政治を見続けてきた彼に謝りたくなります。

真っ直ぐな線も、それ以外のすべてが歪んだ線の中に置けば、「たった一つの歪んだ線」と認識されてしまいます。

本人は「当たり前のことを言っているだけ」と、面映さとともに否定しますが、著者は“改革派の官僚”として知られています。そして、組織に仇なす者として退職勧奨を受けています。物事の進歩は、実は異端が担うことが往々にしてあります。その異端を受け入れて活かせないとは。

その人事権を持つ海江田万里経済産業大臣は、一度として著者に会おうとはしなかったそうです。民主党の代表選で、その海江田大臣を推すのが小沢一郎。その理由が、国民の大多数が実現不可能で見直しが必要と考えているマニフェストを守ろうとしているから。

手の込んだ冗談です。

官僚の責任 (PHP新書)

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