三度、立ち位置

以前、裁判員裁判制度を批判する記事を書きました。その骨子は、人を裁くという行為を、「良い経験をした」「やって良かった」「今後の人生に活かしたい」といった個人的な気分で測られては堪らない、というものでした。

この震災についても、同じことを考えています。

社会のシステムや人の心のあり様に変化が生じたとしても、それを、この震災と絡めて書くことは、理屈ではわかっていても、心が受け付けません。

二万人の命と、生きて残された方たちの苦悩。それと引き換えに手に入れたものがあって良いはずがありません。

二万人の命と、生きて残された方たちの苦悩。その犠牲がなければ変われないなら、変わらなくて結構。

「この震災をきっかけに」「亡くなった方たちの為にも」という枕言葉で何かを語るなら、それは「人の命で購いました」と宣言しているも同然です。

喪に服す。その気持ちだけでした。自分が書きたいことではなく、読んでほしいこと。それを書いてきたつもりです。