責任を取らない大人たち

女子児童の自殺が、日数を経ても、新聞紙上でフォローされています。

教師たちの「いじめがあったという認識は無かった」という主張を覆す事実が次々に明るみに出る様子は、あの「薬害エイズ事件」で、厚生省(当時)が「無い」と言っていた資料が次から次へと出てきた展開と重なります。

この期に及んで、校長も教頭も在籍する教師たちも、「いじめと自殺の間に因果関係があるかはわからない」と主張しています。

※私は今回の記事で、“学校側”“学校関係者”という言い方はしません。何故なら、それらの表現は個人の顔を塗り潰して、その存在を記号化し、曖昧にしてしまうからです。

社会に生きる者は、立場という関係性の中で接します。取引先の担当者に頭を下げるのは、その人に対してではなく、その立場や肩書きに対してです。

校長と教頭と教師たちにとって、人間としての良心よりも、固執すべき立場の方が大切なのでしょう。過ちを認めることは、自己否定であり、敗北であり、屈辱なのでしょう。

「過ちて改めざる是を過ちと謂う」とは『論語』の言葉です。まだ過ちを重ねようというのでしょうか。

校長が、全校集会で“命の大切さ”について語ったそうです。これほど性質(たち)の悪い冗談を聞いたことがありません。ブラックジョークにもなりません。どの口が言うか。

この学校に大切な子供を預け、この校長と教頭と教師たちに教育されることに不安を感じていない保護者はいないであろうことは、想像に難くありません。この災厄が、次は我が子に降りかかるかもしれないのです。

モノの本を読むと、先の戦争の時、あるいはその前から、“しかるべき地位にある者が責任を取らない日本(人)の体質”が指摘されています。この記事も、その文脈で記しました。

http://d.hatena.ne.jp/ocelot2009/20100603/1275569197

しかし、今回は、小学生が亡くなっているのです。それも、自ら命を絶って。こんな無残なことを目の前にして、“立場”を優先することに、何ら恥じるところが無いのでしょうか。教師である前に、人間でしょう。自分の父親と母親の子供でしょう。自分の子供の親でしょう。

恥を知れ、という言葉すら生ぬるい。