冷たい水

運動していて、喉が渇いたと感じた時には、水分補給のタイミングとしては既に遅いと、何かで読んだ記憶があります。ですので、ボクシングジムで練習している際、縄跳びが終わった時、シャドーボクシングが終わった時といった具合に、メニューの合間に一口か二口、スポーツドリンクを口に含むように飲むよう、心掛けています。

一連のメニューを消化する中で、心拍数が上がりに上がり、汗が流れに流れ、ラウンド終了のブザーが鳴ると同時に、蹲るように座り込んでしまう場面があります。そういう時、スポーツドリンクを飲むと、その甘さとべたつきが気に障ります。冷たい“ただの水”がとても美味しく感じられます。血管を通して渇いた細胞に行き渡る快感が実感できます。

かなり偏った内容ではありますが、私は日常的に本を読んでいます。その読書経験の中で、上記のように“ただの水”と呼べるのは、憚りながら、大藪春彦だけだと愚考します。

大藪春彦が描いているのは、純粋な意思です。それが暴力的な行為として表れてしまうのは、実は、大藪作品の主人公たちを取り巻く社会が潜在的に暴力的だからです。もちろん、それは私たちの生きる社会と同一の地平、イコールで繋がっています。

大藪春彦の小説が読まれ続けるのは、文庫の解説に三文書評家が書くように“サラリーマンのストレス解消小説”だからではありません。“ただの水”を欲する心の渇きがあるからです。それがある限り、大藪作品が読まれる限り、人の良心は生きているのだと信じられます。

そう考える時、「大藪春彦の小説からカーとガンとセックスを除いたら何も残らない」という稚拙な評価は、読者を、人間を愚弄したものだと言い得ます。

戦士の挽歌 上 (光文社文庫)

戦士の挽歌 上 (光文社文庫)