押尾裁判に思う

押尾学被告の裁判が、被告が有名芸能人であること、裁判員裁判であるることの二つから、時間や誌面を割いて執拗に報道されています。

この裁判に限らず、犯罪と裁判、そして報道のあり方をいつも想像します。

被害者、殊に亡くなった被害者の遺族は、家族の身に何があったのかを知りたいという、無念さと表裏一体の感情を持って裁判に向き合います。その願いは叶えられるべきです。

一方で、テレビのニュース番組やワイドショー、(スポーツ新聞を含む)新聞や週刊誌は、視聴者や読者の関心を得るために、事件を事細かに、扇情的に扱います。それは遺族の願いに合致したものなのでしょうか。

人の死すら商売のネタ。自由な報道がより良い社会の形成のために必要不可欠なのは論を俟ちません。これは人の世の持つ業と言えるかもしれません。それでも……。

今回の事件が私の家族の身に起きたとして、それらの報道を、私は受け止められないでしょう。マスコミによるセカンドレイプとしか思えないでしょう。見ず知らずの大勢の人たちが、興味本位に、訳知り顔で語ることを許せないでしょう。

なので、この裁判については、周囲の人たちとの雑談でも話題にすることなく、その行方を静かに見守る、というのが私のスタンスです。