母親というもの

元スパイ、元旅客機爆破犯、元死刑囚。それらの肩書きには何ら意味がありません。

新しい事実の確認もできず、拉致問題に何ら進展もなかった狂想曲。

今回の来日騒ぎに関わった政治家や官僚には、出来事を自分の身に置き換えて想像する能力が無いのでしょうか。他人の痛みを想像するという思考回路は無いのでしょうか。

拉致被害者の家族もまた、被害者です。彼ら彼女らの身に降りかかった理不尽な暴力、悲劇をもてあそぶことは、どのような理屈を後付けしようと、許されるものではありません。

パフォーマンスであっても構いません。どれだけの“実”があったのか。考えるべきはその一点のみです。

従来、政治の場でのパフォーマンスと呼ばれる類のものは、どれだけの“実”を得られるか、事前に、既に答えを知った上での、それを正当化するための儀式に過ぎませんでした。やる前に、実質的には終わっている。そういうものでした。

表に出てこない、報道されない新しい事実の確認や、事態の進展があって、今はまだ話せないだけ、ということなら、どんなに良いか。

また、被害者の家族の皆さんが、プライバシーを越えるところまでテレビカメラが入ってくることを許し、その姿を衆目に晒しているのは、どんな些細なことでも事態の解決に結びつけばという覚悟の現れだと、私は思います。その覚悟を食いものにしている、悲劇のストーリーとしか扱わない、報道とは呼べない報道を見ると、想像力の欠如の無残さを感じます。

「てめぇの馬鹿さ加減にはなあ、父ちゃん情けなくて涙が出てくらあ」と、涙が出るのは愛情がたっぷりあるからです。今回の一連の動きを主導した関係者の中に、人知れず涙を流した人はいたのでしょうか。

私の母は、かつて言いました。「母親とは、叶うことなら、自分の子供が年老いて死ぬところまで見届けたいと願うもの」と。

震えるほどの怒りを感じています。