エメリヤーエンコ・ヒョードル

グランドホテル形式と呼ばれる作劇作法があります。限られた空間での、特定の主人公を置かない群像劇のことです。

あなたは、あなたの人生においては主人公かもしれない。しかし、他人にとってはその他大勢の一人に過ぎない。

この諦念は、私を縛り付けます。

エメリヤーエンコ・ヒョードルが“ついに”敗れました。三角締めによるタップアウト。

彼の商品価値は“無敗であること”でした。考えてみると、私はヒョードルが闘うに至る、その物語を知りません。ただ、その圧倒的な強さによる存在感があるだけでした。強さという光の輝きが眩し過ぎて、ヒョードルという個人、一人の男の陰影は塗り潰されて見えませんでした。

ヒョードルが無敗であるが故に、観客は、彼が勝つか負けるかではなく、負けるか負けないかという、競技を観戦する態度としては歪んだ関心を持って、その試合を観るようになっていました。

そして、現実に負けた今。私は上記の群像劇を思い浮かべています。絶対的に強い、負けないヒョードルという主人公=中心が存在しない世界。秩序は安定を、安定は安心をもたらします。それが無い世界。

その群像劇の中で、“無敗であること”というカードを失ったヒョードルは、自身の物語を再構築し、トップ戦線に踏み止まることができるでしょうか? それとも、噂されているように政治家に転身するのでしょうか?

敗者の色気をまとえるなら、同じ男として、ヒョードルを応援したい。戦士として帰って来い、ヒョードル