決闘

日本なら“宮本武蔵佐々木小次郎の巌流島の決闘”。アメリカなら“ワイアット・アープのOK牧場の決闘”。洋の東西を問わず、人びとは決闘という言葉に胸躍らせます。

現在のMMAの、技術的なトレンドの最先端を行くとされるUFCにおいてさえ、Aという選手とBという選手のどちらが強いか、という興味だけでは試合は成り立ちません。その端的な例がブロック・レスナーです。

UFCヘビー級チャンピオンのブロック・レスナー。彼と対戦する相手は、必ず彼を、プロレスラーだったキャリアをネタにこきおろします。レスナーの、プロレスラーになる前のアマチュアレスリングの輝かしい実績とその実力は周知の事実です。それは、対戦相手にとってはさらに重要な真実です。

それを承知でレスナーを否定してみせるのは何故か。それは、自分たちの闘いが、観客の存在を前提としたプロ興行だと認識しているからです。

アントニオ猪木ジャイアント馬場を挑発、否定することで自分の立ち位置を規定してきました。それについて、作家の夢枕獏はエッセイの中で、大略「猪木は、社会的に自分よりも有名な馬場の名前を出すたびに、『すまない、馬場さん』と心の中で頭を下げていたに違いない」と書いています。

闘うに至る必然。それは観る者の中にこそあります。