『太陽を曳く馬』

ジャーナリストの立花隆は著書の『同時代を撃つⅠ 情報ウォッチング』(講談社文庫)の中で、若者の活字離れについて書いています。
ある銀行が新入社員に「あなたは文字志向か、映像志向か」と訊いたところ、八割が「自分は映像志向である」と答えたそうです。

「人間は言葉によってのみ真の思考ができる。言葉を離れては、直観はあってもロジカルな思考はない。」と立花隆は言います。

さらに新入社員に「あなたは感性的か理論的か」と訊くと、七割が感性的(女子は八割)と答えたそうです。

「活字離れした人間は、ロジカルな思考能力を失い、あとは感性しか頼るものがなくなるのである。」と結んでいます。

この場合の“感性”は研ぎ澄まされたそれではなく、“ただの勘”に過ぎないでしょう。

高村薫は警察小説を書かなくなった理由として、二つの事件を挙げています。一つは、物語性のない、ただただ残酷な事実の前に立ちすくんだ、八王子のスーパーでの拳銃を使った殺人事件。一つは、わたしの頭ではついていけないと新聞のインタビューを断った、神戸の連続児童殺傷事件。(警察小説大全集 新潮社)

そうして高村薫は『晴子情歌』を書きます。これは母親が息子に書き送った手紙、それも旧かな遣いの手紙で構成されています。そして次の『新リア王』は老政治家とその息子の僧侶の会話、というよりも、互いの長い長い独白が交互に語られるという作品です。

そして完結編となる『太陽を曳く馬』。扱われる題材は二つ。一つは、裁判でも「わからない」「覚えていない」というばかりで、殺人に到った動機すら定かでない、若い画家による殺人事件。主人公の刑事はそこに何があったのかを知るべく、言葉を尽くして考え、考え、さらに考えます。もう一つは、交通事故死に端を発する禅宗の寺での、オウム真理教も含んだ仏教(主に禅宗)についての問答。語って、語って、語ります。

ゴータマ・シッダールタは悟りを得て仏陀となりました。しかし、それ以後、悟りを開いた者はいません。シッダールタは後に続く者に、悟りに到る道を伝えることができなかったのでしょうか。このようなことを、失念しましたが何かで読んだ記憶があります。

言葉は万能ではありません。もちろん、立花隆もそれは充分に承知していると思います。仏教とは、悟りに到らない凡人の悪戦苦闘の記録の集積なのかもしれません。「諦めたら、そこで試合終了だよ」と言ったのは、漫画「スラムダンク」の安西先生だったでしょうか。『太陽を曳く馬』は言葉を尽くすことを諦めないという作家の信念が全編を覆う作品でした。

高村薫の信念が言葉によって紡がれ、それが読者の私に伝わってきました。しかし、これは、私が“感じた”のだとも言えます。学校のテストのように正解が用意されていることではありません。だからこそ、と思わされた、印象深い読書でした。

※絵画や音楽といった芸術の世界で生きている方々は、また違った世界を視ているのだろうという想像力は持っているつもりです。ただ、私にはそれらの分野の素養がありませんので、ここでは触れずにおきました。