ワンマン・アーミー 続:大藪春彦

私は独りだ。それを受け入れよう。
あなたは独りだ。そこから始めよう。

愛していると言う。そう感じているなら、それはあなたにとって真実だろう。しかし、あなたがそう考えているのと同じだけ、その相手は愛されていると感じているのだろうか。もし答えがイエスなら、それはあなたの想像、もっとはっきり言えば願望に過ぎない。

映画「コンタクト」でこのような会話がある。
女性は「人間が心の平安のために神という概念を作った。神が超越的な能力で人間を作った。どちらが科学的で合理的な考え方か」と言う科学者。男性は若くハンサムな神学者
女性:「私は科学的に証明できることしか信じない」
男性:「(きみを男手一つで育て、科学の道に導いてくれた)きみの父親は、きみを愛していた?」
女性:「ええ、とても」
男性:「証拠は?」
女性:答えられず、無言。

親友がいる。仲間がいる。そこに感じる絆のために、あなたはリスクを背負えるだろうか? それが具体的な負担となって襲い掛かってきた時、相手を恨まずに受け入れられるだろうか? 自分の生活の一部を犠牲にできるだろうか?
できるだろう。ただし、上限を設けて。金の問題なら、50万か100万か。その金額があなたの友情の価値だ。社会的地位や立場を捨てることができなければ、あなたの友情はそれ以下ということだ。
あなたは「自分はそのようなことはない」と言うかもしれない。それは良い。では、あなたの周囲の人たちはどうだろう。「迷惑をかけるのは友達ではない」と言って去っていく人たちを、あなたは恨まずに見送ることができるだろうか。

誰もが独りだ。自分以外の他人を真に理解できる人間などいない。できることと言えば、想像し、知ろうと努めることだけだ。それができなければ、自分にとって望ましいように解釈し、都合の良いように歪曲することだけだ。

大藪春彦の描く男たちは独りだ。より正確に言えば、孤高だ。
孤独ではない。孤独を感じるのは、他者に依存する気持ちがあるからだ。心の弱さをさらけ出して恥じない厚かましさがあるからだ。
孤高とは、それらを拒否している姿だ。弱さは誰にでもある。しかし、それを表に出すことを潔しとしない心持だ。

これは『野獣死すべし』に始まるシリーズの主人公、伊達邦彦に顕著だ。光文社文庫版の『野獣は、死なず』の解説で北方謙三が触れているように、『野獣死すべし』で邦彦が眠っている友人を銃で撃つ場面が印象深い。

大藪作品には殺された家族の復讐、という作品も多いが、大藪はその喪失感を綿々と綴ることはない。主人公たちは家族が死んだことに悲しみと怒りを感じていても、それに寄り掛かって自分を哀れむことが無い。ただただ苛烈な報復行為を描くだけだ。

ワンマン・アーミー。たった一人の軍隊。
バブル崩壊を経て、9.11同時テロを経て、世界金融危機を経て、まだ群れることで保身が図れると思っているのか?
私は独りだ。そして、あなたも独りだ。