私的・船戸与一論 その四

日本においてハードボイルドと言えば、船戸が「ハードボイルドを堕落させた」としたチャンドラーに連なる系譜が主流だ。

大沢在昌はハードボイルドを「惻隠の情・傍観者のリリシズム」と定義する。
原籙は「私にとってハードボイルドは文体がすべて」と言う。
矢作俊彦は「ハードボイルドが好きなんじゃない。チャンドラーが好きなんだ」と宣言する。

福井晴敏を例に挙げると、ハリウッド映画を意識したスペクタクルにしろ、徹底的なメカニカル描写にしろ、それは作品を着飾るものに過ぎない。その作品の根底にあるのは浪花節、演歌の世界だ。

五木寛之は演歌について、演歌は怨歌であり、嫌う者は逆にその世界観に捕らわれているのだと言った。

ここにあるのは心地よい湿度だ。読者の心に染み入る言葉だ。しかし硬派には無用なものだ。

夢枕獏は書いた。「やればできるということと、実際にやったということはまったく違うことだ」

知行合一という言葉がある。実際に行うことができて、それで初めて本当に知ったと言える、ということだ。

目的はある。理由もある。しかしそれに寄りかかってはいない。依存していない。純粋な行動。目的や理由のための行動であると同時に、行動のための目的であり理由である。

他者との関係性の中で自分を位置づける。何によって? 言葉によって。このプロセスを必要としない硬派はチャンドラリアンとは相容れない。