私的・船戸与一論 その弐

やはり豊浦志朗名義の作品に『叛アメリカ史』がある。

「正史-強い者が勝つ。力学が法則にすり変わる。勝った者は正しい。叛史は正史の対極にある概念である。正史が設定した座標軸(権力が自らを正当化するために並べた価値観)をぶち壊すことを目的としたヴェクトルである。潜在的な敵対者が絶対の敵対者に成長する過程であり、絶対の敵対者が正史を撃つために全エネルギーを放電する瞬間である。」

『砂のクロニクル』序文では、暦を例に挙げてこれと同じことを書いている。

“叛史”とは何か。私たちが歴史として教えられたこと、あるいは現在ただ今起こっていることとして報道されていること。その裏側にあるもの。表面には見えない、想像力を要すること。

正史あるいは事実と呼ばれているものを背景に、本当はあったのに無かったことに“された”こと、もしかしたらあり得たかもしれないことを描く。そしてそこに登場することが許されるのは「暴力のみが機能する状況の最前線で行動のみを志す者、すなわち硬派」のみ。

これを荒唐無稽のひと言で片付けることは自らの想像力の貧困、常識という出自のはっきりしない価値観に縛られて安穏としている精神の弛緩を露呈することになる。