『鎮魂歌』

前作『不夜城』の最後、主人公の劉健一は、大略「自分が殺した女の夢をみるが、顔を思い出せない」と語ります。あるいは映画版では、モノローグで「ところで、夏美って誰だ?」と。

彼の怒りや復讐心は、その強さのために「誰のため」という理由すら消し去り、その感情は純度を上げて結晶の如きものになったのでしょう。

劉健一の体はその結晶の集合体、あるいは器に過ぎず、頭は行動のための道具でしかありません。そこに、豊浦志朗船戸与一)の定義する“硬派”を見ます。

ですから、『鎮魂歌 不夜城Ⅱ』はハードボイルドです。

前作の主人公の劉健一は一歩退いて、別の人物、台湾人の若い殺し屋と日本人の元悪徳警官が視点を受け持って物語は語られます。

語り手ではありませんが、そこで起きる事件や出来事の絵面を描いているのが劉健一。出番は少ないものの、その存在感は抜群です。登場していなくても、読者は彼の存在を絶えず意識して読み進めることになります。

かつて、わたしは船戸与一の『猛き箱船』をビルドゥングスロマンだと記したことがあります。

http://d.hatena.ne.jp/ocelot2009/20100119/1263913437

劉健一も、船戸与一の『猛き箱船』の、シャヒーナを殺されたあとの香坂と重なります。

船戸与一は、硬派としての香坂に死を授け、その死に顔は安らかなものでした。どのように死ぬかということは、どのように生きたかということ。『鎮魂歌』で生き延びた劉健一の死に顔はどのようなものになるのでしょう。

鎮魂歌(レクイエム)―不夜城〈2〉 (角川文庫)

鎮魂歌(レクイエム)―不夜城〈2〉 (角川文庫)

ただ一点。『鎮魂歌』で、これだけは受けつけられないことがあります。前作の『不夜城』で、劉健一が唯一タブーとして自身に許していなかった行為。それを躊躇わなくなったのは、劉健一の物語の理屈の上で必要だったのだろうとわかりますが、わたしは決して理解するとは言いません。