保守とは

言葉の意味や使われ方が時代とともに違うのは、いまに始まったことではありません。古文の授業で思い知らされ、悩まされます。

従来の意味とは違う使われ方を、国語力の低下と嘆く人もいれば、時代とともに移り変わるものと寛容に受け止める人もいます。

しかし、現在わたしたちが使っている言葉は遥か過去からの集積であり、時の流れという歴史の試練をくぐり抜けてきたものです。

その自覚なしに、ただ漠然と使うには、言葉は鋭利で危険な道具です。

その国の文化を語るとき、その社会の形、即ち政治と無縁ではあり得ません。そう考えたとき、文学的名声も高く、同時に流行作家でもあった三島由紀夫が社会的なこと政治的なことを語るのは意外なようで、実は当たり前のことなのだと気付きます。

この本の著者は「保守」を「人間理性への懐疑」と規定し、それを基に三島由紀夫の遺した言葉を援用しながら現在の社会を論じています。

これを、自分の論の正当性を証明するために三島由紀夫の名声を当て込んでいると取ることも、三島の言葉を補足するものとして自身の論を展開していると取ることも可能です。

そのようなことも考えつつ、わたしとしては、著者の言葉も、引用される三島由紀夫の言葉も、等価値のものとして読んだつもりです。

保守とは何なのか。そこが曖昧どころか誤解され曲解され、意味を喪失した状態で言葉が使われているのでは、その反対語としての革新もまた同様で、建設的な論が展開されることなどあり得ません。

三島由紀夫だけでなく、多くの人の言葉が引用されていて、とても勉強になる本でした。保守の定義は目から鱗が落ちるようで、これから様々な報道に接するに際して、理解の一助になると思います。

ただ、ひとつだけ苦言を呈するなら、汚い言葉を使うのは控えた方が良いでしょう。せっかくの論が汚れてしまいます。