遥々の旅

高村薫の『空海』を読みました。毎日、少しずつ、ゆっくりと。

一気に読み進める類の本ではありませんので、それで良かったのですが、とにかく自分の知識と思考力の無さに愕然とします。著者がさらりと結論めいたことを書いていても、そこに至る過程を自分なりに想像して補わなければなりません。

かつて、「東寺国宝展」や「空海密教美術展」に足を運んだくらいには空海密教に興味を持っていますが、自分が何も知らないことを思い知らされました。苦笑いも浮かびません。

この本は、高村薫が感じたこと、想ったことを綴っているもので、伝記でも評伝でもありません。何かを教えてくれるものではないのですから、その内容を租借するためには、知識や思考、お寺の行事に参加するなどの体験といった、読み手にとっての武器が必要です。

それでも、読んで良かった、その世界に触れられて良かったと思えるのは、書き手の高村薫の力です。

空海弘法大師。同じ人物でありながら、同時に違う人物でもあるのは、本人の与り知るところではなく、後世の人たちの都合の結果ですが、逆に言えば、人間としての器が大き過ぎて、その人物像を捉えるのに一人分では足りなかったからかもしれません。

それは、一人の人間がどんなに努力しても、その全存在をまるごと、我が身に重ねて理解することが出来ないということでもあります。しかし、だからこそ、人は空海に惹かれるのかもしれません。

空海

空海