傾奇者

国会という最も政治的な場で、喪服に焼香のポーズというパフォーマンスを演じた山本太郎。賛否両論、というよりも否の意見が多いであろうことは想像に難くありません。

しかし、悪名は無名に勝ります。ほとんどの国会議員が、隣の選挙区の有権者には顔も名前も知られていないでしょう? そのような人が夢や理想を語ったところで、川面に小波ひとつ立ちません。

では、彼は悪を為したのかといえば、それは否でしょう。彼の行為によって傷つけられた人はいません。

国会議員でさえ縮小再生産されて投票の際の一票に過ぎない無機質な存在になっているなかで山本太郎が異彩を放つのは何故か。

それは、彼だけが「自分で考えたことを自分が選んだ言葉で伝えようとしているから」でしょう。

もちろん、多くの国会議員がいろいろなことを主張しています。しかし、その言葉が、選民思想ならぬ選良思想に染まっていると、わたしには思えます。国会議員が、そうではない人たちに語りかけるという態度、物腰。それは「国民の皆さん」という言葉に顕著です。「あなたは(わたしたちと同じ)日本国国民ではないのですか」

今回の彼のパフォーマンスを、わたしは是とします。何故か。彼が“一人でやったから”です。すべての責任を彼一人が引き受けるのです。その覚悟と胆力の前には、その他大勢の人たちのヤジなどBGMに過ぎません。

当然ながら、それによって安保法制が撤回され白紙に戻ることはありません。その意味では、彼は敗北者です。

彼は、彼一人の言動で世の中が動くようなカリスマではありません。自分の主義主張を叫ぶだけでは事態を動かすことはできないという自覚もあれば、それを如何に現実化するかという戦略の練り直しの必要性も理解しているでしょう。

これからは「山本太郎が国会議員をしている」のではなく「国会議員の山本太郎が活動をする」という局面になります。

その流れの中で、他の大勢の国会議員と同じように平準化されてしまうのか、それとも(エキセントリックな部分も含めて)際立つ個性を維持できるのか。

他人と手を組むのは、自分の主張の何割かを削るという妥協と抱き合わせです。それを受け入れるのか、否か。

彼が、船戸与一が定義する“硬派”に通じるものを持っているのか、わたしにはわかりませんが、状況が彼の存在を求めたと理解しています。この世のすべてが仏の書いたシナリオなら、彼の登場も必然であろうと。

誰も彼を無視できない、良くも悪くも。それが山本太郎の武器だと思います。