神話の時代

親は、いつまでも親です。その軛を離れて一人の人間として接することなどできません。

そして、その親が自分と同じように子供時代を思春期を青春時代を過ごしてきたことなど、想像できるはずもありません。

それは神話の時代。

ジャイアント馬場も、わたしたちにとって、そういう存在だったのではないでしょうか。

「プロレスラーは強いんです」とは桜庭和志の言葉ですが、それをジャイアント馬場に求めて、その闘いを見つめたことがあったかと自問するなら、「なかった」としか答えられません。

それは、その巨体も含めて自分たちとは違う特別な人という距離感の故かもしれません。そこを出発点にしては、闘う者に自分の中の何がしかを重ねるという共感は生まれようもありません。

そこに血肉を与えて一人の人間として再生させる、言葉。

柳澤健の『1964年のジャイアント馬場』を読んで、増田俊也の『 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』と同様、本というものの持つ力を体感しました。

「知る」ということは大切です。それがなく、イメージだけで吐き出される言葉に力は宿りません。

人に歴史あり。本書とジャイアント馬場に、万感の想いを込めて拍手を送ります。

1964年のジャイアント馬場

1964年のジャイアント馬場