堕ちていくのも
選挙結果の予想とともに、投票率が低いであろうと報道されています。「なんだ、自分が投票してもしなくても、結果は決まっているなら、わざわざ投票に行く必要もないな」という予断を与えようという意図が明確です。
わたしは、獲得議席数の予想よりも、投票率の話に引っかかりました。
誰も、いまのままで良いとは思っていないはずです。より良い社会になってほしいと思っているはずです。
それでも、自由民主党に代わる受け皿がないからという消極的な理由で現状を追認しているなら、投票所に足を運んで自民党と、その候補者に投票するものでしょう。
それすらしないのは、なぜか。
苦痛を味わうのが自分一人ではなく、皆一緒だから、それなら我慢できると思っているのではないでしょうか。
理不尽な目にあうのも、自分一人ではなく、皆一緒だから、それなら許容できると思っているのではないでしょうか。
苦しむのが自分だけというのは我慢ならないが、大勢の他人も一緒に苦しむなら受け入れられるというのはおかしな話です。我慢の対象がずれています。
赤信号、皆で渡れば怖くない。
自分の価値観によってではなく、他者との比較において、その価値を判断する。意味を位置づける。
主体は自分ではなく、他人。
そのような社会で、権利とともに義務と責任を負う民主主義が機能するわけがありません。