母という性(さが)

人は誰でも一作は小説を書けると云います。つまり、家族の物語を。

犯罪を扱った小説を書けなくなった(と本人が思った)高村薫が選んだのは、母の物語でした。そして、母親を描くなら、その女性を母親と認識する息子や娘の存在がなくてはいけません。

家族と云えども、個別の人格を持つという意味で他人です。しかし、そうでありながらも血の呪縛から自由になることはできません。

子にとっては親離れ、親にとっては子離れ。それが上手くできない親子の悲喜劇は世に溢れていますが、『晴子情歌』の母親と息子は、さてどうでしょうか。

男女が結婚するとき、それは二人だけのものではなく、○○家と××家のものとして扱われます。そうして繋がり広がる人の脈。そう、『晴子情歌』は地方の旧家の、一族の物語でもあります。

誰かが誰かの生き証人という集団。家族ではないが他人でもない人々。

その中で、やはり自分たちは家族であるという認識、実感。それは物理的な距離のことではありません。

「それも心々」と云ったのは、三島由紀夫の『天人五衰豊饒の海(四)』の綾倉聡子です。

であるならば、物語の最後の一行、主人公の心の叫びは、紛れもなく私の叫びでもあります。

晴子情歌〈下〉 (新潮文庫)

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