玄侑宗久の『禅的生活』が書かれたのは東日本大震災の前。では、著者は、この惨禍を目にした後で同じことが言えるのだろうかと挑むような気持ちで読みました。

その間ずっと頭にあったのが、良寛和尚の「災難にあうときは災難にあうがよく候、死ぬときは死ぬがよく候、これはこれ災難をまぬがれる妙法にて候」という言葉です。

手紙の中の一節とはいえ、これもまた禅の公案の一種と考えて良いでしょう。これをどう腑に落とすかというのが、この本を読むうえでの私の視点でした。

立花隆は「人間は言葉によってのみ思考する」と言います。仏教にも、有名な般若心経をはじめとする数多くの経典があります。しかし、「拈華微笑」から始まる禅は言葉に頼りません。だからこそ、公案は単純な問答ではなく、そこに禅の特殊性があります。

言葉は、それを発する人の覚悟が込められてこそ、聞く人の胸を打ちます。人は、想像することはできても、その立場に立たなければ本当に理解することはできません。ならば、覚悟は経験に裏打ちされたものにならざえるを得ません。

結論を言えば、読み終えても、私は良寛和尚の言葉が腑に落ちていません。自分のことならそれで良しと思えますが、小さな命を前にして、それを言い聞かせることはできません。

言葉と対峙して、私は太刀打ちできませんでした。

私には“経験”が圧倒的に足りないのです。だから、私の言葉は上滑りしてしまうのです。言葉を並べて、何がしかをわかったつもりになっているだけで、真実に寄り添ってはいないのです。

この本は、私に大きな宿題を与えてくれました。著者が禅に出会えた感動を述べているように、私も、この本に出会えたことに感謝します。

付記:一人の人間が経験できることには限りがあります。だからこそ、想像するという行為は貴重で大切なのだと思っています。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)