三島と司馬

司馬遼太郎は、三島由紀夫の割腹自決について「異常な三島事件に接して」と題する記事で、その死を「惨憺たる」と評しました。その二人を並べて論じるにあたって、著者は「陽明学」を起点にします。

陽明学は“知行合一”を是とします。それを、三島は「革命哲学」として肯定するのに対して、司馬は「思想ではなく宗教だ」と否定します。

これは、「思想は現実社会にフィードバックされるべきか」という問いです。

司馬は、「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体にして高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とかかわりがないというところに繰り返していう思想の栄光がある。」と言います。

そういう司馬が三島の死を否定するのは当然です。しかし、上記のように思想を定義した司馬の小説や評論を読んだ大勢の読者の間で“司馬史観”という言葉が生まれ、それが一人歩きしたのも事実です。それも、司馬の語ることが思想の範疇に入るからこその現象だったのではないでしょうか。

書かれたものが純文学であれ大衆文学であれ、読んだ者の胸に“何か”を突き刺したのなら、その読者は読む前と後では別人であり、思想が思想の範疇に留まらないことの証左です。

知ることは楽しい。本を読むって素晴らしい。

三島由紀夫と司馬遼太郎―「美しい日本」をめぐる激突 (新潮選書)

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