臆病

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」の一文が有名な『葉隠』を題材にした隆慶一郎の『死ぬことと見つけたり』の主人公たちは、毎朝必ず、布団から起き出す前に自分が死ぬ場面を克明に思い描きます。そうして、その日一日を“死人(しびと)”として生きます。

既に死んでいる者は死を恐れません。「二つふたつの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり」を実践する彼らに、生きている者は太刀打ちできません。

私も、趣旨は違いますが、自分が死ぬ場面を思い描きます。自分が死ぬ可能性について想いを巡らせます。階段を下りていて足を滑らせて落ちて首の骨を折るかもしれません。通勤途中、自分は安全運転を心掛けていても、相手の過失で事故に巻き込まれて命を落とすかもしれません。「誰でも良いから殺したかった」という通り魔に遭遇するかもしれません。

馬鹿げた話です。

しかし、怖いのです。「これが、この人と言葉を交わす最後の時間になるかもしれない」という可能性が。不機嫌な態度を取ったり、碌に相手の話も聞かずに済ませたり、場合によってはきつい言葉を投げつけたり、邪険に扱ったりして、それが(自分にとっても相手にとっても)最後の記憶となってしまうことが。

家族には「また、そんなことを言って」と呆れられましたが、それが偽らざる心境です。

これを如何にしてハードボイルドという文脈に位置付けるか。そんなことを考えている、秋の夜長。