あきらめる

ひろさちやの『諸行無常を生きる』は“あきらめる”ことを説きます。

著者は、この本の中で無常(=変化)を便宜的に四つに区別します。

“不可逆的変化/可逆的変化/循環的変化/偶発的変化”です。

これらの変化の中で、私たちは苦しみます。仏教用語では、“苦”とは“思うがままにならないこと”の意とのこと。

では、その“思うがままにならない”世界を人生を如何に生きるべきか。そこで“あきらめる”という言葉が出てきます。

“あきらめる”とは、「諦める」ではなく「明らめる」です。

その“明らめ”を、著者は“物事の道理をはっきりさせること”、そこに主体性を持ち込んで“あるがままを肯定すること”と定義します。

「つまりはこれ生き方というやつよ」by百地三太夫(『ルパン三世』)

ただ何となく手に取るには毒がある本です。色々な例を挙げて論を進める中で、著者は「誤解しないでほしいのだが」といったフレーズを何度も繰り返します。そのような繊細さが必要とされる内容です。

また、宗教の役割と政治及び行政の責任の区別については憤りも露にしています。

高村薫は、阪神大震災を経験してキリスト教から仏教に関心を移しました。ひろさちやもまた、東日本大震災後の仏教の在り方についての懊悩の真っ只中にいるようです。

まだ戦いは続きます。