陰謀論

一度だけ、自らに課した禁を破ります。

この震災と、その後の右往左往はモンスターを生み出しました。それは“猜疑”です。

政治家が何を語ろうと、企業の経営者が何を説明しようと、マスコミが何を論じようと、「それは本心からの言葉なのか、そのデータは真実正しいものなのか」という根本的な猜疑の前には説得力を持ちえません。

漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に、こんなセリフがあります。

「オレは納得したいだけだ。納得はすべてに優先するぜ」

人を納得させられるのは、心を込めた言葉と具体的な行動だけです。

「決める政治」などと持ち上げられる野田総理の目に、鉄の意志を秘めた迫力はありません。そこに見えるのは焦りと怯えです。何に追い立てられているのかと訝しむだけです。

納得できなければ、人は邪推します。何か、表に出せない事情があって、それに則って行動しているのであり、私たちに向けた言葉は、それを取り繕うためのものなのではないかと。

それを“陰謀論”と云います。

私たちは、政治の二重権力構造に慣らされてきました。表に立つ傀儡と、裏に潜む真の実力者という図式です。ならば、今回も同じだろうというのが当然の帰結です。

読売新聞紙上で、現代史家の秦郁彦氏が「陰謀論に絡め捕られないように」と語っています。

“わかりやすい”というのは魅力です。表層的な説得力もあります。「それなら理解できる、納得できる」と。

しかし、陰謀論陰謀論と嗤うことができないのが今の世の中です。秦氏は「きちんと調べればわかることも多い」と言いますが、その調べた先のデータが客観的で公正で正しいと誰が証明できるでしょうか。立派な肩書きを持つ人の言うことだから、本に(新聞に)書かれていることだから正しいなどと素朴に思う人など皆無でしょう。世を覆う猜疑の霧は、それほどまでに深いのです。秦氏の視線は弱く、その射程は短いと言わざるをえません。

この秦氏の記事にしても、「何故この時期に、このようなインタビュー記事が掲載されるのか」という想像をする人がいても不思議ではありません。

咀嚼しましょう。何を? 目に映るものを、耳に入るものを。

吟味しましょう。何を? 自分が考えていることを、発する言葉を。

従来の陰謀論とともに、「それは陰謀論だ」という言説もまた、形を変えた陰謀論です。それら二つの“陰謀論”に惑わされないためにも、このブログは私にとって大切です。