マイノリティ憑依

「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する<マイノリティ憑依>に陥ってしまったのか…」(帯のコピー)

佐々木俊尚の『「当事者」の時代』は、“マイノリティ憑依”をキーワードに、世の趨勢と戦後の日本人の精神史、それに密接につながるマスメディアの在り方を描いています。

当事者ではなく傍観者でいることは気楽で心地好いものです。船戸与一は、その文脈でチャンドラーを批判しました。

しかし、気楽で心地好ければ、気も緩みます。高度経済成長とバブル景気という、経済は右肩上がりに成長するという安定。それに絡みついた55年体制。その前提が崩れた現在、あらゆるものが“場違い”です。

その最たる例がマスコミです。彼らが掲げる「市民感覚」「市民の目線」というフレーズの胡散臭さと、そのカラクリ。「記者会見共同体」と「夜回り共同体」の二重構造による権力との関係。

ソーシャルメディアの台頭もあって、マスメディアの発言力(というよりも説得力)が相対的に落ちています。それを“マスゴミ”などと揶揄していては、同じ穴の狢です。マスメディアが“マイノリティ憑依”の罠に落ちるなら、私も、この記事を読んでくれているアナタも、同様に、その罠に落ちる可能性があるのですから。

「終章 当事者の時代に」に、このような一文があります。

「あなたはあなたでやるしかないのだ。」

マスメディアについて論じながら個人の在り方に言及するのは、誰もが日々の中で何かを考え、話していることへの謙虚な肯定とともに、掲示板やブログ、ツイッターといったソーシャルメディアの可能性と危険性を見据えているからだと思います。

私たちは、自分のことでは当事者になれますが、それ以上は無理です。だからこそ、想像力が必要なのであり、その想像力を養うためには学ぶことが大切です。

単なるメディア論ではない、読み応えのある本です。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)