新訳はリメイクか

映画『羊たちの沈黙』は、サイコサスペンスでありながら、どこか優雅さを漂わせます。それは、野暮ったい田舎娘だった、ジョディ・フォスター演じるクラリススターリングが、レクターと出会い、邂逅を重ねることで、洗練された知的な美しい女性に成長することに象徴されます。

映画を観た後、小説を手に取りました。読み終えて、あらためて凄い作品だとの印象を持つと同時に、違和感を覚えました。映画にあった優雅さがなかったからです。

現在の私が結論から言えば、翻訳です。文体が作品(世界)を構築する小説というジャンルにおいて、それは決定的です。その翻訳家の名誉のために言及するなら、それは巧拙や良し悪しではなく、向き不向きの問題です。

その『羊たちの沈黙』が、新訳版と銘打って、あらたに世に出ました。

これが、村上春樹レイモンド・チャンドラー作品の“新訳”に端を発する流れの一環であることは容易に想像されます。ハリウッド映画がシリーズものやリメイク作品に頼るのと同様に、ネームバリューを持つ作品の新訳版ということで、リスクも少なく一定の売り上げが見込めるという計算もあるでしょう。

新しく生まれ変わっているのか、より映画とシンクロしたものになっているのか。あるいは、映画を越えるのか。

映画が、これほどまで小説の前に壁となって立ちはだかる例は他にありません。

羊たちの沈黙〈上〉 (新潮文庫)

羊たちの沈黙〈上〉 (新潮文庫)