淘汰の時代

何年か前、ある掲示板に、大略「魅力的なところに人材は集まるもの。その逆の最たる例が政界」と書きました。

復興担当大臣の常軌を逸した言動、態度と辞任はイレギュラーな出来事ではありません。私たちは、その程度の政治家しか持ち得ないのです。

その環境を作ったのは、私たち有権者です。私たちの投じた票が、彼らを当選させたのです。

マスコミは“第四の権力”と云われます。その役割りは、権力を監視することです。

一部を除いて、彼らの大多数は、松本代議士の、大略「この発言はオフレコであり、報じた社は終わりだ」という、自分たちに対する恫喝を記事にしませんでした。自らの存在意義、その根幹に関わることなのに。腰抜け。

根強く論じられる与野党の大連立が実現した場合、マスコミは課せられた役割りを全うできるのでしょうか。

私は、上記の“オフレコ云々”の話をネット上の記事で知りました。形や程度は違えど、中東の市民革命の場合と同様、日本でもネットによってマスコミが報じない情報も伝わり、その存在感は増しています。

“強いものではなく、環境に適応したものが生き残る”と云います。それにしても、産みの苦しみと云うには、あまりに過酷です。犠牲が多過ぎます。

魂が軋みます。