私はずれている

歌手の斉藤和義が自作の「ずっと好きだった」の替え歌、「ずっとウソだった」をYouTubeにアップし、話題になりました。

歌詞については、多くの方がご存知だと思いますので触れません。

賛否、様々な意見があるようです。私の解釈ですが、以下のようなものに収斂されるのではないでしょうか。

<賛の場合>

「電力会社はスポンサーとして、音楽業界や、テレビ局をはじめとするマスコミに強い影響力を持っていて、原子力政策を批判することは仕事を干されることに直結しており、勇気のある態度だ。」

「内容も、単純に反原発ではなく、この国と企業の隠蔽体質、嘘と建て前で成り立っている社会を批判したもので、よくぞ言ってくれた。」

<否の場合>

「騙されていた被害者を気取るのは卑怯。」

「自分も、電気の利便性を享受してきたのではないのか」

後出しジャンケンで、今さら言うな。」

「今、この時期に言うべきことではない。」

皆、もっともな意見です。しかし、この歌を聴いた時、私が最初に考えたことは、まったく別のことでした。

創造を生業とする人にとって、作品は大切なものでしょう。自分の分身かもしれません。自分の子供のようなものかもしれません。それを自らの手で汚す。その哀しさ、無残さを感じました。

きつい言い方ですが、この替え歌は、内容的には大したものではありません。私は、聴いて感銘を受けませんでした。(もっとも、替え歌は替え歌です。その内容を評するのはアンフェアでしょう。)

この程度の歌に過剰に反応すること、それ自体がナンセンスです。賛の意見を持つ人も、否の意見を持つ人も、表れ方が違うだけで、根は一緒です。それに、この歌を発表した斉藤和義を加えて、三者は同じ場所に立っています。

あれこれ考える心の余裕ができたのではありません。気持ちが緩んでいるのです。