読むクスリ

「作家のすべては、その処女作にある」という言葉がある。

「彼にとって、快楽とは何も酒池肉林のみを意味するので無かった。キャンバスに絵具を叩きつけるのも肉体的快楽であり得たし、毛布と一握りの塩とタバコと銃だけを持って、狙った獲物を追って骨まで凍る荒野を、何カ月も跋渉する事だって、彼には無上の快楽となり得た。

快楽とは、生命の充実感でなくして何であろうか」(『野獣死すべし』)

この文章について、船戸与一はこう語る。「物質にたいする精神の毅然たる優位性。このストイシズムがゆえに、獣性の権化のように振舞う大藪小説の主人公たちはいつもそこはかとない神々しさを帯びるのである。」(光文社文庫版『復讐の弾道』の解説)

その大藪春彦に『ヘッド・ハンター』という作品がある。地の文が九割、会話部分がほとんどないという小説。それもそのはず、厳しすぎるほど厳しい自然環境の中、ただひたすら狩りをする男の物語だから。相手は大自然と野生の動物のみ。会話のしようがない。

しかし、読むスタンスを変えると、これほど会話に溢れた小説もない。生き延びるため、獲物を仕留めるため、主人公はその大自然と、追う獲物と、全身全霊で言葉に頼らない会話を交わしているのだ。

翻って、大勢の他人に囲まれた私たちの社会。私たちは、そこで『ヘッド・ハンター』の主人公のように心からの会話を交わしているだろうか。そこにある会話のほとんどは、取り引きという大きな機械の一部品のようではないだろうか。人間関係という機械の動きを潤滑にするオイルのようではないだろうか。

『ヘッド・ハンター』には、私たちにありがちな、「どうしてわかってくれないんだ」「どうしてこうならないんだ」という、相手や周囲に依存した甘えは存在しない。主人公にとって、すべては対処すべき状況に過ぎず、それを如何に突破するかは自分の、自分だけの問題なのだ。

そんな生き様を目にして何も感じないなら、男じゃない。

そんな劇薬のような『ヘッド・ハンター』だが、他にもう一点、読むクスリとでも言いたくなる要素がある。主人公が風邪をひくのだ。それは、私たちの想像する“万病の元”と気をつける風邪ではない。極寒の地で、文字通り死に直結した風邪だ。主人公はそれすらも対処すべき現象のように捉え、淡々と処置して回復に努める。この“淡々と”しているところに凄みがある。この場面、主人公の身体の、病状から回復に至る過程の事細かな描写だけで一編の冒険小説になっている。

仕事上の悩み、人間関係のストレスに落ち込んでいる時、何だか上手くいかずにテンションが下がっている時、もちろん風邪をひいてぐったりしている時も。この『ヘッド・ハンター』を処方箋にどうだろう?



……と書いて、Amazonから画像を貼ろうとしましたが、『ヘッド・ハンター』が見当たりません。もしかして、絶版になってしまったのでしょうか。私が持っているのは徳間文庫のものです。大藪春彦作品は、思いがけないタイミングで別の出版社から文庫で発売されることもありますので、いつかまた再度発売されると思いますが、残念です。