広島原爆の日に想う

広島での平和式典。今年は国連や諸外国、特にアメリカに、例年にない動きがありました。

それについて、原爆を投下した軍用機の機長の息子が不満を表明したとの記事がありました。原爆投下によって戦争は終結し、より多くの犠牲者が出ることを防いだのであり、それは正しい行為だったと。

以下の記事は、すべて私の推測に基づくものです。

この男性は、当事者に連なる者として、一般的なアメリカ人よりも原爆について感じるものがあるはずです。アメリカでは、原爆及び核兵器を単なる高性能爆弾と認識している人が多いとも云われますが、それ以上の理解があると、私は思います。

これは仮定の話です。この男性に、旅費や宿泊費といったすべての費用を日本が負担するから、広島と長崎を訪ね、被爆者やその家族の話を聞いてみませんか、資料館等を訪れてみませんか、と提案したら、きっと拒否するでしょう。それも激しく。頭の理解と心はまた別のものです。この男性もまた、戦争の被害者です。

真実は人の数だけあります。共通の歴史認識などあり得ません。織田信長のように舞いましょうか。「完全なる相互理解など、夢幻の如くなり」と。

歴史が証明する、という言葉があります。当ブログをご覧いただいている方なら、その“歴史”が、“勝者が編んだ正史”であるとご理解いただけると思います。もし、それが漠然とした物言いだと感じる方は、船戸与一の『砂のクロニクル』(新潮文庫)の序文をご一読ください。

歴史は何も証明しません。ただ当て嵌めるだけです。

「だからこそ」と、私は思うのです。声高に主張するのでもなく、相手を論破するのでもなく、言葉で捩じ伏せるのでもなく、自らの正義を振りかざすのでもなく、ただ一杯の酒を酌み交わしたいと。