今日一日を

同級生が亡くなったという連絡がありました。詳しい状況はわかりませんが、どうやら事故のようです。

彼はその瞬間、自分が死ぬことを認識したのでしょうか? 老衰や病気であれば、死に向かう歩みを自覚して、それに向き合うこともできます。年齢を問わず、“精神的な存在としての自分”の人生に、心の中で、たとえ無念さを噛み締めながらでも、自分の手で終止符を打つことができます。

そのプロセスを経ることのない、一瞬のうちに訪れる死。「家族にこんな言葉をかけておけば良かった、こんなことをしてやりたかった」という悔恨を持つことすら叶わない死。

大藪春彦の作品では、「〜だった」という過去形ではなく、「〜している」という現在形で物語が終わることが多く見られます。有名な作品で例をあげれば、

「即死した晶夫を包んだまま、フォード・マークⅡのガソリンタンクが爆発した。火葬の赤黒い炎は霧を溶かし、天を焦がして燃えさかる。」(汚れた英雄

「ついに鷲尾は権の心臓にナイフを深く突き刺した。同時に、鷲尾の目の前も暗くなる。(中略)鷲尾は、急激に闇の中に引きずりこまれていく。」(長く熱い復讐)

「(前略)石川克也は、荷物を床に置くとベッドに転がりこんだ。このまま、一週間ぐらい眠り続けたい気分だ。」(戦士の挽歌)

「体じゅうに十数発の銃弾を浴びながらも撃ち返す武田は、虚無の底に沈んでいく……。」(絶望の挑戦者)

といったものがあります。物語の幕を閉じる文章が、「まだだ」と言っているかのようなアンビバレントな印象をもたらします。それは死者の声か。

現在進行形の“生”と、それに終止符を打つ“死”。死に行く者は、その圧倒的な暴力(身体的な、という意味ではありません)に対処することはできません。それは生きている者にだけできることです。誰もが皆等しく死んで行きます。なら、今日を生きよう。特別に立派なことをするということではなく、眠りにつく時、「何だかんだで良い一日だった」と思えるように生きよう。

それしかできない。