亀田問題に思う

フィリピン出身のプロボクサー、マニー・パッキャオ。彼に向けられる尊敬の眼差しは、ボクシングの持つ“見る者の心に訴える力”の具現化です。ボクシングはそれだけの“もの”を持った競技なのです。

それに泥を塗った亀田史郎。今回の“永久追放”という結末は、ボクシングに携わる人たちの危機感の結果だと思います。自分たちの住むボクシング界をこれ以上貶められては堪らないという危機感の。

その危機感が、“亀田ブランド”の神通力と、それに群がる人々の影響力を上回ったということです。逆に言えば、そこに群がる人々が、“亀田ブランド”の賞味期限が切れたと判断したと見ることもできます。

これは、小幡績が『すべての経済はバブルに通じる』(光文社新書)で定義した“キャンサーキャピタリズム”そのものです。癌は次の儲け口を探して転移しようとしています。

しかしながら、この件について息子たちからコメントを取ろうとするのはおかしな話です。興毅たちにマイクを突きつけ、父親の言動を謝罪してもニュース、愚痴をこぼしてもニュース、レポーターに声を荒げてもニュース。何でも良いからリアクションを欲しがるだけ。そこに“報道”はありません。

「馬鹿な子ほど可愛い」という言葉があります。逆もまた真なり。父親は、どんなことがあっても父親です。興毅の「最高の父親、世界一の父親」という言葉がすべてです。もしも親子間で葛藤や問題があったとしても、それは亀田家の中の問題であって、外に向かって喧伝する必要もなければ、外部の人間がとやかく言うことでもありません。

おそらく、亀田家の人々が「応援してくれている、支えてくれている」と考えていた人たちが、これからどんどん離れていくことでしょう。逆境の時、傍にいてくれるのが本当の友。そんな人が僅かでもいてくれるのでしょうか。

亀田三兄弟に本当の反骨心があるなら、ここから逆襲です。それができなければ、それまでのこと。忘れ去られるだけです。