私の好きな作家:隆慶一郎

「正史からは窺い知ることの出来ない歴史の裏面に存在したかもしれないifを、想像力を働かせてあれこれと夢想することは、伝奇小説の最も素晴らしい楽しみのひとつである。そして、こうした夢想が、たぐいまれな物語性と最新の歴史研究を根底に据えた知的ダイナミズムに裏打ちされていたとしたら……これはもう、疑いのない傑作となることは間違いないだろう。」(『かくれ里苦界行』新潮文庫 解説より)

これこそ船戸与一の定義する叛史の物語。敢えて違いを探すなら、そこにあるのは硝煙の匂いではなく、浪漫の香り。

傀儡子や道々の輩と呼ばれた、定住することなく漂泊して暮らした人々に焦点を合わせて日本の中世から近世を見直した民俗学者網野善彦の研究を取り入れた斬新な世界観。正史(として書かれた書物)をニュートラルな視点で読み解き、伝奇小説として組み立て直してみせる慧眼。常識が覆される快感はミステリーに通じます。

宮本武蔵に育てられた松永誠一郎は、その遺言に従い江戸の吉原にやって来ます。何故か二代将軍秀忠と柳生宗矩は吉原を敵視しています。襲い来るは柳生義仙率いる忍び集団の裏柳生。どうやら家康が色町の設置を直々に許した「御免状」に秘密があるらしい。このデビュー作の『吉原御免状』を読んだら、もう隆慶一郎の世界から抜け出すことはできません。

一夢庵風流記』では戦国時代末期の傾奇者、前田慶次郎を描き、
影武者徳川家康』では関ケ原で家康が討ち死にしたとして、徳川幕府の樹立から大阪の陣までを家康の影武者を主人公に描き、
柳生非情剣』では異形の者としての柳生一族を描き、
花と火の帝』では徳川幕府と激しく対立し、皇室と京都を世俗の権力を誇る江戸に対する文化サロンにした後水尾天皇を描き、
死ぬことと見つけたり』では「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」の一節で有名な「葉隠れ」を生んだ佐賀鍋島藩の、毎朝寝床の中で自分が死ぬ場面を精細に思い描いて死人になることで迷い無く生きるという苛烈な武士を描き、

その姿は涼やかで爽やかで、男が男に惚れるとはこのこと、もう手放しです。隆慶一郎の作品を読んでしまうと、自分の中の“面白い”のハードルがぐんと高くなってしまいます。

小林秀雄に師事していましたが、文学に対する厳しさに、その生前は怖くて小説が書けなかったそうです。「いやいや、これだけの作品、小林秀雄も唸っただろう」とは読者の一致した意見ではないでしょうか。