『リトル・シスター』

言葉の魔力、呪力は恐ろしいもの。氷室冴子フィリップ・マーロウについて書いた文章を頭の片隅に置いての読書になってしまいました。これはまったくの偶然で、参りました。

「十代や二十代前半の頃、たとえばフィリップ・マーロウの如きヒーローにいかれて、燃えていた。(中略)ところがここ二、三年、どうも燃えないのである。(中略)好みが変わったといってしまえばそれまでだけれど、それにしても、どうしてここに至って、好みが変わったのかとつらつら考えてみて、はた、と思い当たることがあった。

本を読みながらも、私はいつの間にか心の中で、『しっかし、カッコイイっちゃカッコイイけど、こういう男の人と一緒に生活するのって、しんどいだろうなあ。はっきりいって、ダンナにしたくないタイプ』などと呟いているのである。なんとも情けない話で、こんなことをあからさまに言うと、こちらの教養度を疑われそうで、せつない。せつないけれど、これが真実なのである。」(『冴子の東京物語』)

レイモンド・チャンドラーの作品を評するには奇妙な言い方になりますが、チャンドラリアンの小説として面白く読めました。

ハードボイルドという文脈を離れて読めば、翻訳した村上春樹の文章はチャンドラーに合っているとさえ思います。と言いつつ、村上春樹の作品は『ノルウェイの森』しか読んでおらず、他の作品に手が伸びることがありませんが。

清水俊二訳の『かわいい女』も手元にあるので、一部読み比べてみました。あれこれ比較や批判がありますが、チャンドラーの作品を、清水俊二はハードボイルドとして捉えて翻訳し、村上春樹はその軛(くびき)に縛られなかったという印象を持ちました。

リトル・シスター

リトル・シスター