西部劇

「ハリウッド映画は、どのように装いを変えても、その根幹は西部劇だ」という論を読んだことがあります。『ダイ・ハード』然り。『リーサル・ウェポン』然り。“現代を舞台にした西部劇”という惹句。

マイケル・サンデル教授の著書の中で、“アリストテレスの目的論”が論じられます。

例えば、素晴らしいフルートがあったとして、それは誰の手に渡るのが正しいのか。アリストテレスは、そのフルートが存在する目的から考えます。フルートは、美しい音色を奏でることを目的としたモノです。つまり、フルートを最も巧みに演奏できる者が所有すべきと言います。

その論を当て嵌めるなら、銃は、最も上手く他人を死傷させられる者が持つべきとなってしまいます。

銃が文化になっている社会。全米ライフル協会という団体が政治的発言力を持つアメリカで、銃とは一体何なのか。銃が人を殺すのか、銃を撃つ人間が殺すのか。それを問いかけたのが、ジョージ・P・ペレケーノスの『魂よ眠れ』でした。

“現代を舞台にした西部劇”を地でいくスティーヴン・ハンターの作品は、銃が主人公です。歴戦の勇者、伝説のスナイパーも、銃の持つ、その威力を発揮させるために存在しているかのようです。しかし、一方で、彼らは銃とともに歩んだ人生を、ある時は肯定し、ある時は否定し、それでも離れられない苦悩に苛まれます。

私は、ハンターが、単なる銃器礼賛の作家だとは思いません。その深い思慮をエンターテインメントに昇華してみせる、素晴らしい作家です。

ここ数年、低迷していましたが、最新作の『蘇えるスナイパー』は、プロットは傑作の『極大射程』と『最も危険な場所』を足して二で割ったものながら、その復活の手応えが感じられました。

蘇えるスナイパー (上) (扶桑社ミステリー)

蘇えるスナイパー (上) (扶桑社ミステリー)

蘇るスナイパー (下) (扶桑社ミステリー)

蘇るスナイパー (下) (扶桑社ミステリー)