『レディ・ジョーカー』(上巻)

高村薫は、かつて「自分はミステリーを書いているつもりはない」と発言しました。そして、実際に、阪神大震災後は、仏教に関心を寄せて大きく作風を変えました。

その発言に、東野圭吾が「自分はミステリーを一段低く見るようなことはしない」と噛み付きました。それによって、高村薫の発言の真意は何なのか、ミステリーの定義とは何なのか、といったやり取りが専門家の間でも、(普及してからは)ネット上でも多く見られました。

私は高村薫の『新リア王』を読んだ時、ある掲示板のトピックに、「ミステリーの定義は色々あるが、一人の青年僧の心の変遷もミステリアスなら、政治家の虚々実々もミステリアスで、二人の独白が交互に繰り返されるこの作品も間違いなくミステリーだった」という意味の感想を書きました。

東野圭吾は(本人も意識して)ミステリーと呼ばれるジャンルの作品を書いているのでしょうが、私はその作品を一冊も読んでいないので、ここでの言及は避けます。ただ、高村薫の作品は“高村薫”というジャンルだと位置付けています。

「空虚な日常、目を凝らせど見えぬ未来。五人の男は競馬場へと吹き寄せられた。未曾有の犯罪の前奏曲が響く―。その夜、合田警部補は日之出ビール社長・城山の誘拐を知る。彼の一報により、警視庁という名の冷たい機構が動き始めた。事件に昏い興奮を覚えた新聞記者たち。巨大企業は闇に浸食されているのだ。ジャンルを越え屹立する、唯一無二の長編小説。毎日出版文化賞受賞作。」

高村薫は自著の文庫化に際し、大幅な加筆訂正を行います。そのため、ハードカバーの単行本を既に読んではいましたが、今回、文庫版を手に取っています。その単行本で最も印象に残った台詞があり、今回の文庫版でもまた、そこでふと立ち止まりました。誘拐グループのリーダーの物井清三は、この犯罪を決意した理由をこう言います。「この爺さんの、六十九年の人生が行き着いたところだとしか言えない」。

実質的に再読なのですが、読み応えはまったく損なわれることがありません。闇は光があって初めて存在します。逆に、光も闇があって初めて存在します。人の心の闇を、人の世という社会の闇を描くこの作品が逆説的に浮かび上がらせる光を見逃さないように読むべく、続いて中巻に進みます。

レディ・ジョーカー〈上〉 (新潮文庫)

レディ・ジョーカー〈上〉 (新潮文庫)