『ありふれた祈り』

この日常こそ、かけがえのない宝物。事象を語る際に万年単位の歴史の中で、数十年の命など瞬きにも満たない一瞬の出来事ですが、だからこそ愛おしい。

メルヴィルの『白鯨』の系譜に連なるスタイルとでも言えば良いのでしょうか。ウィリアム・ケント・クルーガーの『ありふれた祈り』は、ミステリーにジャンル分けされますが、その前半は語り手の少年と弟の、アメリカの田舎町のありふれた日常を描くことに紙幅を費やします。もうずっと、このまま兄弟の少年時代を語って終わるのかと思うくらい、そこにミステリー的事件はありません。

そして起こる、ある悲劇。

前半の何でもない日常の描写が濃密で読み応えがあるからこそ、その事件が起きてからの物語は読者の胸に響きます。そこにあるのは謎解きでも復讐でもなく、人々が生きる日常の復元力です。

誰もが何でもないという顔をしているからこそ、そのコミュニティは何もない平穏な様子を見せているだけです。その向こう側では、誰もが“何か”を抱え、どの家庭でも軋轢や相克があります。逆に言えば、何もない人もいなければ、何もない家庭もありません。

そこにある小さな綻びが、そこに意図も悪意もないのに傷口を広げることになり事件を生みます。

それを許すという態度は、如何なるものを指すのでしょうか。人が人を罰するとは、何をどうすることなのでしょうか。

しかし、読み終えて、胸の内にやり切れない気持ちも、もやもやとした気分もありません。あえて言葉にするなら、救われたと感じます。

その何でもない日常の描写が読み応え十分なのは、作家の人間を観察する目の確かさと筆力の賜物です。主人公と(弟を含む)家族が救われたのは、(父親が牧師ということで日常的に触れていた)キリスト教の神の教えもありますが、それと同時に、否、それ以上に、その確かな手触りを持った日常が“きちんと”あったからだったと、わたしは思います。

ありふれた祈り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ありふれた祈り (ハヤカワ・ミステリ文庫)