『真説・佐山サトル』

漫画『ハチミツとクローバー』で、自分が何者であるのか、自分には何が出来るのか、自分というものがわからず苦しむ若者が、迷い彷徨う自分を見つめて、心の内で呟きます。「自分にないのは地図ではない。目的地だ」と。

その裏返し。地図もない場所で、目的地がどこにあるのかもわからずに、否、そもそもあるのかも定かではないのに、この一歩の先にあると信じて歩いて行く、佐山聡

裁判には判例主義というものがあります。判断の基準は過去の似た事件での量刑であり、そこから逸脱してはいけないということです。

そのような物差しが無いのですから、無人の荒野に道を切り開いた佐山聡の足跡を評価するというのは難しいものです。

田崎健太の『真説・佐山サトル』は、その難問に果敢に挑んだ作品です。

柳澤健の『1984年のUWF』をきっかけ、発端にしてUWFに関する様々な本が発売され、この『真説・佐山サトル』も、その流れの中に位置づけられるでしょう。

また、昨年、高田延彦ヒクソン・グレイシーの戦いから十年という区切りを迎え、いくつもの関連した書籍が書店に並ぶなど、プロレスと総合格闘技MMA)との繋がり、その歴史を振り返る機運が高まったこともあるでしょう。

そこで、佐山聡という人物は避けて通れない存在です。

世の中がバブル景気に向かって加速し、はしゃいでいたとき、ひたすらに地味で、いますぐどうこうというのではなく、将来のための種蒔きのような試行錯誤を繰り返していた姿は、わたしたちの知っている「時代の先を行く天才」というイメージとはまったく違います。

著者が指摘しているように、佐山聡は自分の言動について説明や言い訳をしません。そのため、どこか秘密めいたところ、想像の余地があり過ぎるため、わたしたちは彼をある種神格化していたかもしれません。もちろん、タイガーマスクの栄光も含めて。

この『真説・佐山サトル』は、そんな佐山聡を一人の人間として描いています。親がいて、妻がいて子がいて、友人がいて。でも、やはり孤高の男として。

前例がないところに新しいものを作るというのは、これほどまでに苦難に満ち、そうでありながら、それを苦難と思わない心があってこそ叶うものなのかと、圧倒され呆然としながら読みました。

何年も前、当ブログにて「前田日明佐山聡の後追いをしている」と書きましたが、本書を読んで、「レイモンド・チャンドラーにはダシール・ハメットがいた」という言説を思い出しました。「前田日明には佐山聡がいた」と。