何もしていない

この夏も、微々たる金額ですがボーナスが出たので、「あしなが東日本地震津波遺児基金」と「国境なき医師団日本」に寄付をしました。

こうして寄付をするたびに、わたしは何もしていないと感じます。

学生の頃だったでしょうか、友人の家に遊びに行ったところ、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』が部屋にあり、名前を知っているだけで特に興味もありませんでしたが、何の気なしに手に取りました。

何かのPKO活動に関する回だったでしょうか、作品の中で、いかにもアメリカ人といった風貌の白人が、金を出すだけで現場で身を危険にさらすことのない日本人を罵倒します。それに対して著者が、大略「自分は身を削って仕事をして、たくさんの税金を納めている。それが活動費用として使われているのだから同じことだ」と啖呵を切り、ペンだこが出来た指を見せつけ、その迫力に圧倒された相手の外国人が言い負かされて頭を抱えるという内容のものがありました。

あるとき飲みながら、その友人は「すべてはその人の自己満足」と言いました。他人との比較に意味はなく、自分の納得こそが大切ということで、それには大いに頷きました。しかし、どこで満足するかを想定するとき、そこで自分の限界をも見定めることになります。自己満足とは妥協との抱き合わせです。

毎年、夏と冬の二回、寄付をするたびに、わたしは何もしていないと感じます。

それでも

加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読みました。再読です。

初めて読んだときには、人間が他者との関係性においてのみ個人で在り得るように、人間の集合体である国もまた他国があってこそ存在し得ることを考えました。

rascal2009.hatenablog.com

今回はロシア革命ソ連の誕生が、当時の世界中の国々の関心事であり脅威であり恐怖の対象であり、さらに現代に至るまでの世界史の中心にあるのだということを実感しました。

政治的な権力を持つ人たち、経済的に裕福な人たちが共産主義を忌み嫌うのはわかります。既に持っている当然の権利、即ち既得権益を奪われてしまうのですから。であるならば、国の都合とは即ち一部の人々の個人的な損得勘定ということです。

現実に戦争が起きている状況で、共産主義が嫌いだからといってソ連を邪険に扱うことは出来ません。敵側に取り込まれてしまっては大変ですから。その合従連衡の奇々怪々の代表例が独ソ不可侵条約の成立と、その破棄です。そこに日ソ中立条約を加えても良いかもしれません。

中国もまた然りです。蒋介石が率いる国民党政府は、自国内に中国共産党という敵を抱えながら日中戦争を戦っています。その共産党ソ連と繋がるのは避けたいからと、共産主義を掲げる集団と戦っていながらソ連と手を組むのです。

アメリカやイギリス、その他の連合国側の国々については東西冷戦を挙げれば事足りるでしょう。

近現代史の裏の主人公はソ連であり共産主義という思想だったのだと強く思いました。そして、その共産主義という壮大な実験が失敗に終わったことは歴史の皮肉です。その影響はソ連が消滅した後の世界にもまだまだ色濃く残っています。

わたしたちは世界史の中にいるのです。数十年後、あるいは数百年後、「あの時代」として語られる世界史の中に。

唐突ながら、それにしても船戸与一の『満州国演義』の凄さよ。本書を読んでいる最中、あの叙事詩に心が向かったこと一再ならず。わたしの読書遍歴のなかで、“あの作品”以前、以後という楔のような作品です。

『悪の五輪』

月村了衛の『悪の五輪』を読みました。この作品は、もともと東京オリンピックを題材にしたアンソロジーに収録された短編『連環』を長編化したものです。先に書かれた短編を基に長編を書く、レイモンド・チャンドラーと同じ手法です。

この作品の主人公は東京オリンピックそのものです。それは、オリンピックという魔物と言い換えても良いかもしれません。

戦後の復興のシンボルとして、国を挙げて取り組むオリンピック。戦時中の全体主義の如く、その大義名分を損なう言動は許されません。しかし、国を挙げての公共事業なら、それは即ち利権の巣窟ということでもあります。

表の美辞麗句と、裏の金、金、金の暗闘。オリンピックだから特別ということではありません。それが、この国の在り様です。

全編を通じて感じるのは、時代の変化と、そこから取り残される者の悲哀です。

東京の至るところで工事が行われ、昔ながらの風景が姿を消していく時代。それはテレビの普及とともに映画産業が傾き始めた時期でもあります。

そして、短編では紙幅の都合もあって端役に過ぎなかった武闘派ヤクザの花形敬。彼の造形が見事です。滅びゆく者の呻きと哀しみが強く印象に残ります。

物語は、戦争末期の学徒兵の壮行会から始まります。土砂降りの、色のないモノクロの世界。言うまでもなく、華やかに東京オリンピックの開会式が行われた国立競技場です。また、登場する実在の政治家やフィクサーたちは戦争の時代の(満州や中国大陸で作り上げた)人脈によって暗躍します。

読んでいて、先の戦争の時代と現在は地続きなのだと思い知らされます。何一つリセットされてなどいないのです。

さて、二度目の東京オリンピックが来年に迫っています。その陰で、どんな魑魅魍魎が跋扈しているのやら。

悪の五輪

悪の五輪

尽くす

高村薫と南直哉の対談『生死の覚悟』は、仏教の入門書としては薦められません。二人は、仏教に馴染みのない初心者の読者を想定し、それを補うべく前提となる基礎知識を会話の端々に配置するという意識が、ないとは言いませんが希薄です。そして、何よりも本書の、というよりも対談者の二人の際立った特徴として、仏の教えを信じるというところから出発して仏教にアプローチして“いない“という点が挙げられます。本書で語られるのはあくまでも仏教の一断面と捉えるべきでしょう。

わたしたちは言葉を用いて思考します。それを他人に伝える際も同様です。その言葉によって真理は説明し得るのでしょうか、悟りは伝え得るのでしょうか。二人は言葉を積み重ねてきた仏教の歴史を重視します。

「言い得ないもの」、つまり真理や悟りは言葉を尽くし、考え続け、どうしても言語化が出来ないという摩擦や抵抗感を実感することで、それを認識するしかないというのが眼目です。この逆説に痺れました。

この箇所を読んで、漫画『MASTERキートン』を思い出しました。主人公のキートンは保険会社のオプ(探偵・調査員)であると同時に考古学者です。フランスの、ある廃校寸前の社会人学校で教壇に立ち、生徒たちに「人は、どうして学ぶのか」と問い、自ら答えます。「それが人間の使命だからです」と。

性急に答えを求めることなく、わかりやすい正解に飛びつくことなく、そのときの精一杯を大切に日々の生活を送りたいと自分に言い聞かせました。

生死の覚悟 (新潮新書)

生死の覚悟 (新潮新書)

『冬の光』その②

この作品に登場する男性は平凡なまでに典型的な企業人です。その妻も、内助の功こそが生きがいという女性です。

この妻は、男性との出会いにおいて学歴や知識という意味ではなく、一人の人間として聡明という描かれ方をします。作中において、彼女はまったく悪くありません。ただ、夫を自分の夫であるとしか認識出来なかったのです。自分とは別の人格を持つ他人、一人の人間として見るという発想がなかったのです。もちろん、不倫を許すのが女の器量などと言うつもりはありません。しかし、夫の心に関心を寄せ、その内側に分け入ろうとしたならば、それは妻として正当な態度であり、この夫婦、家族の姿は違ったものになっていたはずです。

もう一方の女性。彼女は自分の力で生きていける才能、能力の持ち主です。そのため、男性優位の社会で周囲と衝突を繰り返します。その中で、主張すべきことを主張し妥協を許さない姿勢を支持する人たちも現れます。読んでいて切なかったのは、彼女自身は変わっていないのに、時代とともに社会の価値観や考え方が変わっていくために周囲からの評価が変わっていくことです。もちろん、良い方から悪い方に。

誰にも価値があるのでなければ、誰にも価値はない。これはマイクル・コナリーの作品の主人公ハリー・ボッシュの言葉です。人の値打ちとは何なのでしょう。わたしには、その問いに答える言葉がありません。

物語の最後、この女性の教え子たちによって彼女の功績を称える本が作られ、その人間性に救われた個人的な経験が語られる場面があります。無駄ではなかった。主人公の男性の抱いた感慨に救われるような気持ちになりました。

その男性も同様です。ひとつ前の記事で書いたのは家族、特に娘とのことでしたが、彼は東日本大震災で被害に遭った漁師と出会い、その見ず知らずの相手に持っていた少なくない金額のお金を委ねます。その漁師は、復興の第一歩を踏み出した後、お礼のサンマを送ってきます。想いは明日に繋がっていくのです。

このお金、実は訳ありで、男性は受け取りたくなかったけれど受け取らざるを得なかったものなので、自分のために使うよりも誰か他人の役に立つ方が望ましかったのです。それを、受け取った漁師は「一生懸命働いて手にしたのであろう大金」と思います。ここにもまた認識の断層があります。人の世とは、こうして営まれていくのかもしれません。

冬の光 (文春文庫)

冬の光 (文春文庫)

『冬の光』その①

家族といえども他人です。そのすべてをわかり合えるはずもありません。

篠田節子の『冬の光』は、父親と娘(次女)の二つの視点で語られます。第一章は娘によって、母親と姉を交えた女たちによって父親の(彼女たちの目に映った)姿が語られます。第二章は父親自身によって、第一章で紹介されたエピソードが語られます。

それが、同じなのにまったく違います。一人の人物の二つの姿の差異、あるいは落差。これは認識の断絶です。

そこに登場する一人の女性。主人公の男性とともに学生運動を戦った同士ですが、彼が過去は過去として大企業に就職し、組織の中で上を目指す一方で、彼女は学問の世界に残り、自らの価値感に準じて“世間”と戦います。

清濁を併せ吞むことを手段と見做す男と、妥協を自らに許さない女。二人は人生の折々に再会しては互いの存在を求め、その姿は陰と陽の二つが結びついた勾玉のようです。二人は自分たちを恋人同士、あるいは愛人関係とは認識していません。ただ、自分に欠けたものを補うように相手を求めるだけです。

ずっと家族の目を欺いていたのではなく、間に数年間のブランクを挟みながらの、あるときは偶然の再会から始まり、あるときは喧嘩別れして疎遠になり、二人の付き合いは断続的に続きますが、家族にとっては裏切り以外の何物でもありません。

この断層を生んだ原因は男性にあります。彼は女性の一切を、どんな想いを抱いているのかも含めて家族に話しません。それは家族といえども共有することの出来ない(告白をするということは、それを双方が共有するということです)領域だったのでしょう。

それが一過性の浮気だったら。しかし、彼にとって彼女の存在が大切に思う家族と同じくらい、かけがえのない宝だったことが双方の歩み寄りを不可能にしてしまいました。

二人が決定的に分かれた数年後に、あの東日本大震災が起きます。そこでボランティアとして活動した後、男性は四国八十八箇所巡り、いわゆる「お遍路さん」に出かけます。そこで彼が目にしたのは、修行とは呼べない、地域経済に組み込まれた体験型イベントとしてのお遍路でした。

その中で出会った一人の女性に、彼は救われたのかもしれません。心の病を持ち、精神のバランスを取れない彼女は旅のお荷物であり、彼は何度も別れて一人の旅を続けようとしますが、そう出来ませんでした。むき出しの心。それをぶつけて来られたとき、逃げることを自らに許せなかったら、正面から受け止めるしかありません。

去る者は日々に疎し。彼の死後、妻は夫のいない、娘たちは父親のいない生活に慣れていきます。彼の真実の物語は家族に伝わることはなく、断絶は横たわり続けます。

しかし、最後に判明する彼の死の真相。それを知った娘の涙は、彼の一生が無駄ではなかったこと、生きてきた時間、その想いが受け継がれたことの証です。

冬の光 (文春文庫)

冬の光 (文春文庫)

反省会

80年代を代表するキャッチコピーのひとつ、「反省だけなら猿でも出来る」。

先の戦争において、作戦の立案を含み、実際に軍という組織を動かしたのは佐官レベル、課長級の人たちだったと何かで読んだ記憶がありました。それ以上の将軍たちは上げられた書類に承認の印を押すだけだったと。

その人たちの戦後の会合の様子を収めたのが本書です。

語られることのポイントはアメリカとの開戦です。

外に向けては、まさかアメリカがあそこまで強硬な態度に出るとは思わなかった。ヨーロッパ戦線でドイツが、西部戦線ではイギリス本土を制圧し、東部戦線ではソ連を打ち破るであろうという見通しが甘かったと“反省”します。

内に向けては、あらゆる統計、計算、シミュレーションにてアメリカと戦争を行う国力が日本にはないことは明らかだったが、それを主張出来る“空気”ではなかった。そうして報告書は改竄され、数字は自分たちの都合に良いように水増しされた。仕方がなかったが、言うべきことを言えなかったことが悔やまれると“反省”します。

彼らが反省しているのは、もっと上手い作戦を立て、もっと上手く戦争を遂行出来なかったことです。自分たちの未熟なものの見方、戦略眼のなさ、狭隘な保身、拙い作戦によって万単位の人々が無駄に死んでいったことへの言及はありません。

そして、有名な陸軍と海軍の不仲。作戦で連携するどころか、相手が何を考えているのか互いに知ろうともしません。ただただ、自分たちだけで戦争の準備を整えていきます。それは、本書では触れられていませんが、予算獲得のためです。行動予定がなければ予算はつきません。陸軍と海軍が互いに予算面で相手に劣ってはならないと張り合ったのです。そうして、これだけのことをやった、つまり膨大なカネを使った以上、何もせずに元の状態に戻るわけにはいかないと自縄自縛に陥ります。

本書では海軍の身勝手さに批判が集まります。特に名前が挙がるのが、山本五十六です。その行動のすべてにおいて、邪魔をしてくれた、余計なことをしてくれたという論調です。自分たち陸軍に協力を仰いでいれば、もっと上手くやれたのにという口ぶりです。

本書を読んで最も驚いたのは、戦前の日本は、昭和13年をピークとして経済が成長していたという話です。国内の不況を打破するために中国大陸に進出したのだと理解していましたし、2.26事件の背景には、青年将校たちの農村の貧困に対する同情があったはずです。

これは現在の日本と重なります。戦前は財閥が富を独占し、現在は大手企業が内部留保を溜め込んでいるということなのでしょうか。ここは読み終えても消化不良のまま、わたしの中に残っています。

その好景気によって得られた富が軍事費に回され、それがエスカレートすることによって困窮していき、多くのものを輸入に頼っている以上、それを止められたら資源を求めて戦争をするしかないという理屈の、どこに“理”があるのでしょう。

「空気」という言葉が何度も出て来ます。ここ数年、空気を読むという表現を多く耳にしますが、それは昨日今日始まったことではないのです。昭和52年に、昭和16年頃のことが話し合われる場において、既に当たり前のこととして頻出しているのです。

歴史(あるいは過去)に学ぶといいますが、先の戦争は(歴史や過去ではなく)現在のことだと思えてなりません。それはとても怖いことです。